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珍島イヤギ・・・イヤギってなあに?

珍島イヤギ・・・イヤギってなあに?

草墳(チョブン)

草墳-3

草墳-2

<2005年8月13日撮影 <珍島郡 義新面 新亭里にて>

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『現代の残る古い葬法 草墳(チョブン)』

韓国では現在も土葬を主とし、火葬その他の葬法はほとんど認められない。
そして葬礼には野辺送りや墓造りなどに儒教式の複雑な作法を要する。
しかし、儒教とは関係のない古い葬法も残っている。
草墳もその一つで、近頃でも韓(朝鮮)半島の西部・南部の離れ島や
山間僻地に点在している。

たとえば、南部のある離れ島では、村外れの山中に石を積み並べ、
その上に藁の筵を敷いて棺を載せ、さらにその上を屋根のように藁で葺いておく。
これが「草墳」である。藁葺き屋根を「草家」というのと同じ名付け方だ。

石積みではなくて、両端をX状やY字形の組んだ棒に丸太を掛け渡し、
あるいは四隅に杭を打って台を作り、
丸太や台に藁包みの死体を結びつけておく形式も見られた。
樹木を利用して、その幹や枝の股に縛っておくものもあった。
草墳の特徴は、遺骸を土の中に埋葬せずに地上に置いたまま、
俗に「風葬」と呼ばれる方式を採る点である。
そして一定の期間、たいてい3年目を迎えると改葬することになる。
その時は、葬主が立ち会い、草墳を崩し、不浄のない人に骨を拾ってもらう。
遺骨をブラシで拭いたり水や焼酎で洗ったりして汚れを落し、
白紙の上に頭から足まで組み合わせて並べ、麻布に包んで縛り、棺に納める。
納棺せずに七星板に遺骨を載せ、絹や白紙で包むだけのこともある。
沖縄諸島の「洗骨」と良く似た方式である。

納棺が終われば、引き続き出棺・埋葬となる。
これは普通の土葬による方式と変りはなく、墓地では山の神を祀り、
墓作りを終えた祭りなどをきちんと行う。
要するに草墳では、第一次の風葬と第二次の洗骨葬(土葬)との
二回にわたる葬礼が行われるのである。
二重葬・複式葬などと名付けられている。ある所で草墳を
「初墳」とよぶのも、これを第一次葬と考えるからだ。
日本でも二重葬は南西諸島をはじめ各地に見られた。
そしてさらに広く東アジアを中心に、各国・各地域にも分布している。
韓国でも、草墳はもとは全国的に普及していたらしい。

1968年、韓国文化人類学会のアンケート調査によると
全羅南道の20郡から回答があり、現に126ヶ村で慣習として実行しているといい、
翌年の1969年には全羅北道の13郡502ヶ村で実行していると答えている。
同じアンケートで、30年前、50年前ならば両道ともはるかに多くの村で
実行していたと回答している。そして、最近急速に衰退してしまったものらしい。

なぜ土葬をせずに草墳を作るのか、当時現地では次のような説明をしていたという。
(1)孝行のため-二回にわたる葬礼は手厚い葬り方である、
親に孝行を尽くすことができるから。
(2)遺骨に対面したいため-離島や沿海部の漁村では長期の出漁をする。
したがって、その期間に親が亡くなると死に目に会えないことが多く、
帰村後にせめて遺骨なりともまみえたいために。
(3)神祭りの月を避けるため-旧1月や2月は神祭りの月であり、
この月に土を掘り起こせば神の怒りに触れ、他の村人が死に、
子孫に災いが生じるといわれているので、とりあえず草墳を作っておき、
のちに改めて普通の土葬をする。

これらの説明では、草墳の起源を解くような鍵を得られない。
ただ親孝行を協調していることは注目される。
その点に関連して、昔は遺骸に奉養する「もがり」殯(ヒン)の習慣があり、
これにともない野辺送りも遅らせて百日葬や三年葬などもよく行われたという。
草墳もこの殯と関係があり、別に草殯(チョビン)・初殯(チョビン)などとも
よばれるように、正式の埋葬に先立つ殯の段階の風俗だと考える者もある。

2003年 新潮社発行 「世界の歴史と文化 韓国偏」より

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『土に触れると祟りにあう 草墳!』

「草墳」は島嶼地方で比較的多く行われたと伝えられている。
死体を土に埋葬せず、平たい場所に石を並べ、害虫の侵入を防ぐため松の葉を敷きつめたあと、その上に死体の入った柩を安置し、草を被せる葬礼儀式である。「草墳」は別名「風葬」とも呼ばれているが、昔は陰暦の1月に人が亡くなると埋葬できない風習があった。新年を迎えた1月に死体を土に埋葬することは不浄な行為であるとし、もしも死体を埋葬した場合、村人が各種の病気に苦しめられる!と信じられていた。

ほかの理由としては、先祖代々の墓(先山)には生葬では入れないので草墳にした後再び埋葬した。また孝行息子が親の死体を埋葬せず、再び生き返ることを願う思いで草墳の横で3年間墓守りをしたとも伝えられている。普通の葬式を行い草墳にしたあと4~5年後にその場所に埋葬する場合、と別の場所に埋葬する場合とある。村人は「草墳にすると死体はミイラ状態になり骨に皮がくっついていた。陰暦の1月でなくても死体をきれいに保つため、経済的に余裕のある家庭はよく草墳にしていた」と語る。

<1999年8月25日 芸郷珍島新聞の記事より>

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魂が肉体を抜けるとあの世に行く。あの世に行くのに死者が現世でどう生きたか、そしてそれを送るこの世の人の心使いが重要である。
現世の真心が足りないと死者の魂はあの世をさ迷い、この世の者に災いを下す。島人は大部分このように信じていた。ゆえに死者の魂を慰め良い霊界に導くことは生きた者の義務であるとまで考えた。これが現在は珍しくなった二重葬礼すなわち「草墳」という儀式が行われるようになった理由である。

毎年数回、藁をかえ墓地が崩れないよう心を配るのがこの草墳である。では島人はなぜこのようにめんどうな草墳をしたのち再び葬礼を行うのであろうか。
「死体をそのまま先山(先祖の墓地)に埋葬するのを見たことがあるか。それは親不孝者のすることである。肉身がずるずるに腐りこの世での痕跡が全てなくなったあと、骨だけをきれいに残して埋葬すれば地下水が濁らない。海に出て親が死んだらどうするんだ。上水道もない所にやたら埋めるわけにゃいかない」

草墳にする背景には親を敬う島人の思いと土着信仰である風水地理説の影響が多いようだ。島人は海にでたら数日あるいは一ヶ月も家を留守にする。この間は親の面倒をみる者もいない。このとき親が亡くなると喪主がいない葬儀を行うが埋葬は出来ない。草墳は海に出た喪主が親の最後をみとどけられなくても、親に会えるよう深い配慮が隠されている。
またこの世の垢が残る死者の肉体と五臓六腑を全て捨て去り、きれいに残る骨だけ埋葬すれば死者が安らかに良い所に行け、明堂に死者を埋葬すると代々福を受けるという風水思想が強く作用したことも草墳にした理由ではないか。

このような草墳であるが時には身を隠すのに活用?されたようだ。日帝時代そして6・25動乱が勃発したとき島であるという理由ゆえ逃げようにも逃げる所がない。巡査や北朝鮮軍の目には草墳は墓以外の何ものでもなかったのである。亡命者は昼は草墳の中で死体と共に過ごし、夜になると家で空腹を満たしたという。

<「国土と民衆」珍島風俗誌の文化より>

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韓国の草墳は昔から伝えられているならわしとして、約百年前には南西海岸の島嶼のみならず内陸地域の所々まで幅広く分布した。しかし1970年代の資料によると日本帝国時代の際に制定された衛生法と火葬の勧奨、現代の産業化の影響などにより、今は南西海岸の一部島嶼地域だけ行われている。
このような草墳のならわしは葬式の風習である「殯(ビン)」からその起源を伺える。王は5ヶ月の葬、高官は3ヶ月の葬、士大夫は1ヶ月以上も葬式を行うため死体を納めた棺を葬るまでの期間、家屋の舎廊や庭の一部に安置したり、山や野原に置いたりした。家の中に安置するのを「家殯」家の外に安置するのを「外殯」ともいった。

また「明堂(風水説でいう墓地として運の良い場所)」を選び葬式を行うと、子孫に福をもたらすとされる風水思想ゆえに明堂の地を探し3年から4年後に埋葬したり、墓と敷地の運と子孫らとの山運がよくないと最高30年後に葬式を行う場合もあった。このような葬式風習の流行で一般庶民まで子孫の幸福を願い草墳をつくり、吉日を選んで洗骨し葬式を行うようになった。

庶民の家は小さいので家の付近にある畑の丘などに、周囲から容易く手に入るワラを使って草墳をつくった。

草墳にする理由として
1)土地に触れることを禁じられている1月と2月
2)天然痘が流行っている時に土を掘ると土地を刺激してママシン(麻麻神、天然痘の神様)の災いが下り、村中に天然痘が流行ると信じられた。
3)息子が漁に出たりして長期間留守をしているときに親が亡くなった場合。などがあげられる。

この草墳は近来にいたり葬式を二回も行う煩わしさと費用の負担により、おもに孝心の強い孝行者や、経済的に余裕のある者がつくるのみである。

<「韓国の草墳」韓国民俗博物館 出版より>


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